がんばれ!!しんちゃん
子育てから、音楽・ビデオ鑑賞などの趣味、学問や能力開発等生活全般に関する話題を断片的に書き綴る。
日中の不幸な出来事は誰が複雑にしているのか?
君が代」「日の丸」「南京大虐殺」「極東軍事裁判」等に関係する問題は、いずれも政治が係わっているので複雑化しているのではないだろうか。
個人的には、例えば国歌が「君が代」であろうと「タイヨウの歌」であろうと「ヨイトマケの歌」であろうと、どーでも良いと思うのだが、どーでもよくない人たちもいる。

歴史学的調査・研究は、政治権力を介在させない、中立な立場(例えば大学)で行ってもらいたいものだ。

全てが疑わしく感じるだけではなく、政治論争や宗教論争に巻き込まれ、翻弄され、迷惑を被るのは、一般民衆だ。

日中の民衆の間で交流が困難な主要因は言葉と慣習の違いがあるということだ。
もし、近い将来、翻訳技術が進歩し、チャットやメールでのコミュニケーションが円滑に行われるようになったとしよう。

中国のAと日本のBが「南京大虐殺」の話題について話し合っていたとする。

A「過去に、日本軍が南京で多くの人々を殺害したらしい。」
B「同じ、日本人として、嫌な事件だ。」
A「戦争だから、そういうこともあるよ。」
B「日本の政府は、きちんと事実関係を、調べて補償したんだろうか。」
A「政府のやることは、よく分からないが、民間人の付き合いがギクシャクするようなことはしないでほしいよな。」
B「まったくだ。」

普通、この程度の会話になるだろう。

ところが、政治色が入ると、途端に憎しみ合い、場合によっては、民族性、人種の優劣等ありとあらゆる差別や偏見が絡見合いカオスとなる。

通常の会話で各自が政治的ノイズ等を自覚的に排除する努力を持続することがモラルとして確率されなければならないだろう。





それから、日本や中国の一般人にとって、宗教・宗派は嗜好の問題であると言えなくもないだろう。
主教・宗派の違いが、イスラム教やキリスト教のように殺し合いにまで発展することは稀だ。

どこで、どう間違えたのか、誰が何を大騒ぎしているのか。

宗教家か?政治家か?

各立場というものはあるが、最も単純なモデルを想定し、少しずつ変数(要素)を加えて行くのが妥当だろう。

今、問題となっていることの中には、本来なら、簡単に解決できる単純な問題も含まれているはずだ。

感情に訴え、いたずらに増幅し、政治的立場、宗教的立場、民族的立場等様々な立場が複雑に交錯し、本質が見えにくくなっており、解決の糸口さえも掴めないようになっているのだ。

でも、最も単純に、人間同士の交流を基本に捉えなおしてみると、事実の検証とその対策がスタートとなるはずだ。



[補足]


1.愛国心
 これは、郷土愛と考えるべきだ。
 名称は、「愛国心」でも「郷土愛」でもかまわないではないか。
 故郷の自然や街明かりの美しさ、人々の親切さや暖かさ、名産物等々。

 当然、他国が口をはさむ問題ではない。

 そして、「侵略」でも「進出」でも大して問題ないではないか。
 もし、どうしても「侵略」としなけらば、中国に対してよい顔が出来ないと言うなら、「侵略」とすればよいが、但しバランス(歴史教育は愛国心を育てるという目的を持つことから自虐的な歴史観になることは避けるべきだ)を保つために、中国の侵略の歴史も合わせて記述すべきだろう。
 その箇所は、理詰めで、損得勘定(愛国心がプラスになるかマイナスになるか)して対処すべき問題だ。


2.君が代国旗掲揚

 
「国旗及び国歌に関する法律」により、「君が代」は国歌に「日章旗(日の丸)」は国旗となっている。
君が代」が反対なら代替案として別の歌が国歌候補として挙げられなければならない。国歌・国旗というからには、対外的性格が強い。
国歌・国旗を拒否する行為に一体どういう意味があるのだろう。
海外からは奇異な眼で見られて当然だ。
意固地になって、「君が代」や「日の丸」を拒否している教師がいるが、生徒に何を訴えたいのだろうか。
「君」という歌詞が、皇室を指しているとも解釈できるのが気に食わないというなら、歌詞の意味を変更しようというような運動をすればいいのではないかと思う。
日の丸」が軍国主義の日本帝国の復活を想起するなら、国旗の変更運動でもすればよいではないか。

学校の卒業式などで「君が代」を歌い、「日の丸」の掲揚を強要されるのがいやなら休めばよいだろう。
中には、号令に従って起立して、礼をする事でさえ嫌悪感を抱くという人だっているに違いない。

学生のころ、自分の学校とは別の学校の学生が固まって歩いて来ると、圧迫感や恐怖感を感じた時期もあった(黒い詰襟の学生服が原因ではないかと思う)ので、集団行動に対して抵抗感があるという事は理解できる。

現在の日本に、国歌斉唱国旗掲揚を国家権力に従順である証であると考える人は一体、どれくらいいるのだろうか。
もっとも、日本人は空気で左右される国民性を持つとされているので、油断はできないが。
この問題も、あくまでも国としての社交辞令という程度に軽く捉えればよいのであって、何も、「愛国心」を引っ張り出したり結びつけなくてもよいはずだ。


あまり、イデオロギー等を引っ張りだして、硬直した考え方をすると「頭の病気」だと思われるだけだ。


3.被害者はだれか

よく、「戦争による被害者は、中国人民であり、日本の国民も被害者だ」とする論法があるが、現在の「日本国民は、被害者でも加害者でもない」という風に言うことができる。
日本国民に自虐的な歴史観を押し付け、そのアイデンティティをズタズタにして、その上血税を絞りとることに加担しているのは誰なのだろう。
まるで、恐喝そのものではないか。
中国の政治家も日本の政治家も同じ孔のリヴァイアサン(ホッブスは政治家をリヴァイアサンと呼んだ)なので、国民は、しっかり監視していなければ、コロッとだまされるだろう。

場合によっては、憲法(政府にたいする命令)を改正して国民にとって、活用しやすいものにする必要がある。